証明写真と経年
今朝、証明写真を撮った。
私はカメラ好きなので証明写真は私物カメラで撮る派である。なんなら証明写真機に撮りに行こうものなら負けとすら思っている。
なぜ良いカメラを持ってるのにわざわざ駅前のちょっと下半身見えて恥ずかしいBOXに寒い中行かなければならないのだ!となるので、自力で撮る派だ。
しかも自力で撮れば加工し放題だ!(レタッチ技術はない)と言うことで今朝も撮っていた。
しかし一筋縄では行かない。両肩の高さのずれが気になったり、私は左口角が上がりにくいのでそれが気になったり、前髪の影で左半顔が暗くて後で編集が大変だなーとか、試行錯誤しているうちに「素材がダメだ!もう無理!」と匙を投げた。
実に悲しい...。
PCの証明写真フォルダには大学受験の時のものからバイト先の面接に使ったものや就活の時のものまで、全てが格納されている。
それを眺めながら時の流れを感じていた。
時と言えば、今日下北沢の東口をマブダチとぶらぶらしていたら高校の時の同級生に会った。もう6年ぶりとかなのに気付いて声をかけてくれて嬉しかった。何故か隣のマブダチを紹介して戸惑わせてしまって、同級生もマブダチもごめん笑
6年...一緒にバンドしてたのは7年前...そりゃあ17が24にもなる...。
夕飯にラザニアが出て、ふと北海道のマンションで一生懸命ラザニアを作っていた祖母の姿が思い出された。
まだ私が中学生とかだったのでもう10年以上前の事だ。
あの時は祖父も健在で、祖母は久々に作ったラザニアを自分で食べながら「ダメねぇ、腕が落ちちゃった」と切なそうにしていた。
めちゃくちゃ美味しかったけどなぁと思い出す。それでも祖母の中で腑に落ちないものがあったらしかった。
あれから祖父が亡くなりすっかり萎んでしまった祖母はめっきり料理をしなくなった。もうあのラザニアは食べられないのだろうか。
モテ倒して同時期に3人の女子とデートを重ねてたりした兄も結婚してもう4年目だ。時の流れが恐ろし過ぎる...。今やすっかり奥さんにデレデレで熟年夫婦のムードすら漂っていた。私の推しである。
時がちゃんと経つと言う尊さについて思う。人は死んでしまうと当たり前だけど時が止まってしまうから、時がちゃんと経ち、ちゃんと老けていくことほど尊いものはない。
20代前半の憂鬱と言うのは恐ろしいもので、誰といてもどんなに楽しいことをしていても襲ってくる。形容し難いいろんな不安、悩み、コンプレックスとわだかまり。
その正体は「老いること」への悲しみでもある気がする。私たちは常に「若い」ことはかけがえがないと思いがちである。それは単純に沢山食べれたりシワがなかったり、無茶できたり...そしてつまるところ、多くの可能性があるからだ。そしてその可能性は別に30だろうが40だろうが50だろうが続いていくことになかなか気付かない。若いうちは。
私の近年の口癖は「人生長いな」であり、28の兄もついこの間そう言っていた。
私たちは続いていく可能性を持て余し、うんざりすることも多いのかもしれない。
祖母は「あなたはまだ若いから」と会うたびに言ってくる。確かに祖母は早く走れないかもしれないけど、私は祖母のように味のある上手な絵が書けない。若いことが全てではない、と口に出しそうになっていつも辞めている。
ふとした瞬間に祖父と従兄弟の事を思い出す。時が止まった2人のことをよく思い出す。
経年というのは悪くないが、証明写真はいつまでも嫌なものですね!
素材が悪かった、しょうがない。。。