大きな独り言

ありのままいる場所。

告白

実はめちゃくちゃ文章を書くのが好きです。

めちゃくちゃです。

でも会ったことある人に読んでもらっても構わない文章って書くのが難しくて、ずっとひっそり書いてました。で、ネットでばったりあった人とかには読んでもらって賛否両論いただいて暮らしてました。

でもそれにも飽きてきたし、読みたい人が読むだけだから別に公開する場でなんか書いてもいいんじゃないかな、とか思ってきたので2022年はやろうかなと思います。

ですが、お願いがあって、読んだら即忘れて下さい。会った時に言及とかほんと一番やめてください。あ、でも「好き」と言われるのは大歓迎です。

では、書いてゆきます。

 

私が舞台を最初に見たのは赤坂ACTシアターの「Talk like shinging」という香取慎吾主演の舞台で、私が「笑の大学」を見てから映画という沼にどっぷり浸かったように、「Talk like shinging」を見て舞台という沼に浸かった。

要するに歌うようにしか話せない青年がなんやかんやで周りを幸せにしていく物語である(雑)が、汗を振りまいてスポットの中で歌う川平慈英の姿に「舞台ってなんかヤバいぞ」となったのを覚えている。

いや勿論主演の香取慎吾にも感動はしたが、なんか陽気なスポーツキャスター止まりの印象だった川平慈英に「この人の底知れぬ才能はなんだ!?」と私を驚愕させる魅力が舞台というナマモノにはある。

そして中3くらいで「ふくすけ」を見て、大人計画というこれまた沼にハマり、人生が決まっていくのである。

これを書いて話したいことは「舞台や映画は沼なんだよ!」ということではなくて、稲妻が落ちるような感覚を得る体験って大人になればなるほど早々起きなくなるのだなという切なさである。小さい頃は人工的に投影されたプラネタリウムの星にすら痛く感動していたのに。

今日、帰り道に公文から帰る少年を見た。点字ブロックに引かれた3本の線のうち、いちばん左だけをどこまで歩けるかという遊びをしていた。物凄い一緒にやりたくなって、己を抑えた。

童心と感動ってすごく近いところにあって、人は感動を無意識に求めているからたまに童心に返りたくなるんだろうな。

そういうことで去年始めたクレヨン画は4枚の不細工な作品を描いた後で止まっている。継続力のない事よ...

この間、大学の同級生が役として歌舞伎座の舞台に立つところを見た。なんとも、、、いい言えぬ感動だった。大学1年の頃から実は入門したいという話を聞いていた人があの歌舞伎の舞台で花道から登場したのを見て、ブワワワッと込み上げた感動は言葉には出来ない。

夢を叶えて、そしてこれから更なる夢に生きていくその始まりを見られたことがとても嬉しかった。ということで、引き続き頑張って!

なんの話だっけ、あ、童心と感動の話ですね。私は強いて言えばこうやって文章を書くことも童心に返る一つである。4歳から紙芝居を描いては母親に見せていたらしいほどの活字入力中毒、らしいです。

とにかく、思いついたままに脳に流れる言葉を書き起こすのが生きがいである。

稲妻が落ちる感覚も、多くの人には童心もそうだけど、大人になったら失うことって多い。けれど大人になった感覚もない。なんだこれは?中間ってことだろうか。

引き続き夢の話をできる友達がいるのが私は嬉しい。夢も段々忘れていく。夢は早く叶えることが大事なんではなく、如何にそれを抱き続けるかだと、私だけは本気で思っている。本当は定収入よりも夢一本道ダ!と歩み始めた決意のこと、羨ましくそして尊敬を持って見ていたよ。(特定の人に書くのはやめなさい)

小山田壮平が「10年経ったらおもちゃも漫画も捨ててしまうよ」と歌う切なさの中を今生きている。おもちゃもぬいぐるみも大体捨てちゃった。それでも「10年経ったら旅に出よう 南の国がいいな」とすかさず未来のことも歌う壮平が好きだ。

なんですか、これは結局沼の話?切なさの話?それとも夢の話?

という訳で、とっ散らかった脳をただ書いていくお目汚しの「大きな独り言」ですが、良ければ読んですぐに忘れて下さい。

 

また書きます。